ぬるま湯に浸る

2.5と呼ばれる舞台やら推しやらアニメとか。ゆるっと日常も。

ミライで待ってる。

 

ご無沙汰しておりまーす………(寝起きドッキリ声)

 

本日も素敵な推しライフは過ごせておりますでしょうか?

 

 

 

 

はてさて。いろいろと話題やら物議やらを醸した作品、

舞台『刀剣乱舞』悲伝 結いの目の不如帰

先日?だいぶ??千秋楽を迎えてそれなりの日数が経ちました。

 


感想のようなものを書くか悩んだんですけど。

 

 

 

今回、チケットの女神に見離されたわたしは、2推しくんの復帰作でもあったのですが、劇場で観劇するという夢は叶わずに幕を下ろしました。言い訳はしません。わたしのガッツが足りなかっただけなのですから。

なので、今回わたしが見ることの出来た公演は、大千秋楽のライブビューイングのみ。

 

現地に足を運んで観劇していない以上、

千秋楽での演出変更についての批判や意見を述べる立場ではないのではないかと思ってしまうのです。

物語の感想や考察についても。

 

 

 

まあ、感想は書くんですけど(書くんかーい)

感想というか、いろいろな意見や考察がされていたり、出演者の方のニコ生などで公演への思いなどお聞きした上でわたしが個人的に感じた感想にも満たないものを、今日はずらずら書こうかと思います。

 

 

まずは、2推しくん。おかえりなさい。そしておつかれさまでした。

オタクにとってもしんどい作品ではありましたが、本当に、本当にしんどかったと思います…

 

推しと認識してからの日が浅いので、彼を見る目が他のファンの皆さんとは少し違うのかもしれませんが。


2推しくんの演技って、良くも悪くも“優等生”なのだと認識していました。

なので、彼の殺陣や動きに圧倒されることはあっても、彼の演技に対してわたしの心が動かされることはきっとないのだろうとも思っていました。

結果として、わたしの認識は間違っていました。物語の結末に泣かされたのではなく、彼の演技に泣かされました。

改めて、素晴らしい演技でした。推しという存在って最高ですね。

 

 

あと、2推しくんって根がオタク気質っていうか、脳内は確実にオタクの我々寄りだなってニコ生見てて思いました(笑)

熱く内容語ろうとすればするほど、ストーリー時系列順に喋っちゃう感じとか、

「そこで語彙力なくすんかーい」って部分で「すごい(小並感)」みたいな言葉しか出てこないところとか。


一生懸命話してるのは伝わるし、

作品にもキャラクターにも真摯にひたむきに臨んでいたんだっていうのもわかるんですけどね。

オタクって考察好きな生き物だよなって2推しくん見てると心から思えるというか。それな!ボタンがあれば連打したい気持ちになりつつニコ生見てました。

名前は出しませんが、誰の話してるのかわかるかと思いますので、まだタイムシフトで見られる…はず!ぜひ入会してくださーい(ダイレクトマーケティング)。

 

「AがBでCになっちゃってDも起こってわーーーー!!!」みたいなざっくりしすぎだろって1幕の解説が見られます。爆笑。そういうところ好き。

 


オタク考察しがちって言ったけれど、

個人的に、色々な解釈とか自分の中でも新しい発見があったりとか、そこは盲点だったことやわたしとは真逆の解釈をしている方もいたりして。

そういう文章を読むのがわたしはとても大好きな時間です。なので、たくさんブログ巡りの旅をしております。

 


2推しくんがニコ生で「これは自分独自の設定なんだけど〜」って話してくれた裏話だったり、

長谷部役の和田さんだったかな?「知らない部分は知らないままでもいいんじゃないか(意訳)」っていう言葉を受けて、

なるほど、わたしの心に1番しっくりぴったりくる感想というのはこれだ!って思ったんですよね。

 


考察に考察を重ねることは楽しいですし、オタクやってる~~~感がすごくしますけど、

「正解」は1人1人全員が持っていると同時にどこにも存在しないのではないかな。

「考察」という行為に対して漠然と考えていたものが、より確固なものになったのが、わたしにとっての悲伝という物語でした。

 


わたしはどう足掻いても、わたしにしかない世界観と価値観の中でこれまで人生を過ごしてきた人間だから、

刀の付喪神である彼等(特に三日月宗近とう付喪神)の深層心理やその時々の思い、なんてわかりっこないのです。

彼のやり残したことって?山姥切との約束も、わたしの考察とはもっと違うそれこそ本編の中では描かれていないものかもしれない。

“歴史はすべて結果の上に成り立っている”というのは三日月なりの解釈です。それが正しいかどうかわからないように、わたしたちの知らない三日月の思いや考え、覚悟もあるではないかと。

そもそも、今までの舞台『刀剣乱舞』シリーズでわたしたちが見てきたものは、円環の中でのほんの一部でしかない以上、何回目のループで、どのように彼の思考が形成されていったのかを知る術もありません。

 

三日月役の鈴木さんの心の内にしかない三日月宗近像や解釈、思いというものもきっとあるのだろうと。なんとなく、そんな気がします。

 

 

 

 

千秋楽公演。円環の果てでの2人の勝負の結末が変わりました。

山姥切国広が三日月宗近に勝利したこと。勝負の後に三日月は消えてしまったけれど、

これが彼の望む最期だったのでしょうか。山姥切国広という存在は、彼にとっての救いとなったのでしょうか。


勝敗がどちらであれ、結いの目から解き放たれ消えることが彼の望みだったのか。

特別な存在であっただろう山姥切国広に「負ける」ことに意味があったのか。


三日月はあまり多くを語らない刀だったので(特に自分の思いや考えに関しては)、わたしには、この物語で何が三日月の救いだったのか、そもそもこの「悲伝」という物語の中に救いがあったのかどうかすら、今はまだ判断することができません。

 

 

花が綻ぶような微笑みと共に顕現した三日月を迎えて、物語は終わります。

 

舞台『刀剣乱舞』という物語は1つの区切りを迎えました。

 


果たして、この物語はハッピーエンドだったのか。

ハッピーエンドとはいかなくてもベストエンドなのではないか。

ハッピーを迎えられる可能性は秘めているのではないか。

ハッピーエンドでもバッドエンドでもない。

あの三日月宗近は消えてしまったのだから、バッドエンドではないのか。

 

どれもがきっと正解だと、正解として良いのだと、今はそんな風に思っています。

 


 

正解は1つだけじゃなくてもいい。

 

 

千秋楽での演出変更を受けての感想として見かけたものの中に、

「ではそれまで見てきた52公演は不正解のルートだったのか?」というのがありました。


そんなことはないとわたしは思います。

自分の目で見た公演で自分自身が感じたこと、考えたこと。

それが正解でいいのだと、たくさんの正解があっていいのだというのが、


「悲伝」を見終えたわたしの、舞台『刀剣乱舞』という物語へのわたしの解釈であり感想です。

 

 

 

 

 

 

彼等の物語がこれからどうなっていくのかは未定ではありますが…

円環の先、未来のあの本丸で、いつかまた彼等に会える日が来ることを願っています。